観ないとソンダと思ったので

だれでも発信できること自体が良いことと聞いたので、美術展や映画、音楽などの感想など書いてみます。

ボブ・ディランがIBMのCMで、人工知能ワトソンと対話。

ボブ・ディランIBMのCMで、人工知能ワトソンと対話。

 

youtu.be

絶妙なレトロ感とディランっぽい感じの会話が秀逸。

日本語訳してみました。

IBMワトソン:
ボブ・ディラン。私は言語能力を高めるために、あなたの歌詞を全て読みました。

ディラン:
全部読んだんだ?

IBMワトソン:
私は一秒間に8億ページ読むことが出来ます。

ディラン:
そりゃ速い。

IBMワトソン:
私の解析によると、あなたの主要なテーマは「時の移ろい」と「愛の消失」。

ディラン:
大体、合ってそうだ。

IBMワトソン:
私はいまだかつて、愛を知りません。

ディラン:
俺たちはいっしょに歌を書いてみるべきだな。

IBMワトソン:
私は歌えますよ。

ディラン:
君が歌える?

IBMワトソン:
Do be bop be bop do be do be do...

(立ち去るボブ・ディラン)

ティルマンス展 「Your Body is Yours」@国立国際美術館を観ました

国立国際美術館で開催されたティルマンスの個展、「ヴォルフガング・ティルマンス Your Body is Yours」を見ました。

いつもの国立国際美術館の客層から平均年齢マイナス5から8歳、シャレオツ度3倍くらいの感じの客層。
会期終盤だとしても予想以上の人出に、あらためてティルマンスの人気を実感しました。
そういえば、何年か前の森山大道の個展も結構な人出+シャレオツ度「高」だったので、ティルマンス人気というか、やっぱり現代美術と写真の客層の違いがあるわけですね。

ティルマンスの個展を見るのは初めてでしたが、一口に言うと面白い、飽きないという感想です。
展示会場自体がティルマンス自身の手によるレイアウト、デザインということで、非常にリズムよく考えられた構成だったのだと思います。

展示作品は大別して、

  • 友人やパートナーとのポートレートやスナップ
  • 物の形態を主題にした作品
  • カメラやフィルムを光学器として扱ったミニマルな作品
  • 政治的なメッセージを展開するコラージュ作品

などからなっていました。

代名詞とも言えるポートレート、スナップは、まさにティルマンスを見ているという感覚で、来場者が一番楽しめるものだったと思います。
クラブやパーティ、男女の肌のクローズアップなどの、無軌道ながら、生を感じる瞬間を写し取ったイメージが良く知られていますが、他にも植物、とくに成長している植物の写真が多く、まとめてみると、どの写真も強い生命力を感じさせる点が共通していたと思います。夜景や、車のヘッドライトだけを写した写真でも、それを見ている主体が意識されるためか、肉体的な感じがするのが不思議でした。

もともと、ティルマンスの90年代の人気というのは、クラブカルチャーやゲイカルチャーに代表される、タブーに触れる刺激を伴う自由への指向が、時代の先端を切り取るファッション性やオシャレ感と相まって共感を得ていたのだと思いますが、最近の作品まで合わせてみると、ティルマンスの自由への指向というのは世代や文化の表象としてではなく、本質的に作家の表現の中心にあるということが分かります。

展示の中盤に置かれた、移民問題や、貧困問題、同性婚に関するリアルタイムな新聞記事をコラージュした政治的な作風は、オシャレ感皆無のどシリアスなものでしたが、これも、90年代から一貫した、自分が自分として生きること(Your Body is Yours)への指向の中で捉えられるものだと思います。
観客も皆熱心に見ていて、展示のリズムや構成の力もあると思いますが、ティルマンスの写真に惹かれる要素には、もともとこういうシリアスな面が含まれているのだと思いました。

展示の後半には、戦場にいる、あるいは戦場に向かう兵士の新聞記事写真を切り取ったシリーズがありましたが、展示前半にある友人たちとのプライベートを撮ったリラックスした生の時間との対照が際立つ、乾いた緊張感を感じさせる写真で、個展のタイトルである「Your body is yours」の示すものについて、あらためて意識させられました。

一方で、印画のグラデーションや単色の色面だけで構成された「シルバーインスタレーション」、立体的な素材としての紙の美しさを追求したような「ペーパードロップ」などのミニマルで実験的な作品群は、物としての写真、プリントに視点を広げながら、純粋な色彩や形態の美しさを感じさせる印象深いもので、展示の流れのなかで変奏的な役割を果たしていたように思います。

森山大道は、写真集と写真展の違いを音楽に例えて、写真集をアルバム、写真展をライブと語っていましたが、ティルマンスの個展は非常にアーティスティックで完成度の高い、多くの観客を満足させるライブのように感じました。

そういう意味では、展示全体を通じて「Your Body is Yours」というメッセージを伝えているようにも思いました。

wired.jp

蔡國強展:帰去来 (横浜美術館) を観ました

横浜美術館で蔡國強展「帰去来」。

蔡國強は、企画展や芸術祭などで最近よく見るので気になっていました。

京都で開催された芸術祭Parasophiaでは、メインホールの巨大な櫓で一番の存在感を放っていたのが印象に残っています。

火薬を主な素材として用いることや、多人数での共同作業の作品制作の印象から、派手な仕掛けのアーティストに見える一方、ワタリウム美術館の「古今東西100人展」では、子供を抱いた観音様の掛け軸に、絵がぼんやりとしか見えないようにわざと上から和紙を重ねてある繊細な作品もあったりして、まとまった作品が見たいなあと思っていたところなので、この個展は非常にいいタイミングでした。

 

横浜美術館は初めて訪れたのですが、非常にアクセスが良く、みなとみらい駅を出て、ショッピングモールを抜けるとすぐに丹下健三建築の建物がありました。

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館内に入ると、アーチ形の壁面に、この個展のために制作された巨大な作品「夜桜」が現れます。

ここは撮影OKだったのですが、自撮り棒による撮影禁止という注意書きがあったのは、そういう来場者がいたのでしょうか。

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これが火薬かあ、とひとしきり見上げたり、近づいたり。確かにちょっと見たことのないおもしろい色彩、質感でした。
どうやって作っているのかと思いましたが、展示内で上映されていたメイキング映像を観ると、この作品はこのエントランスロビーで作られていて、床にひろげた型紙のうえに火薬を撒いて、本当に導火線に火をつけ爆発させていたので驚きました。さらに、そのあと火がついたのを「消して!消して!」と叫んでいるのをみて、これの許可が下りるのはこの人だけかもしれないと思ったりもしました。

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その他の作品の展示スペースは2階にあがったところから。

順路の最初はこれも新作で、日本の春画をモチーフにしたという「人生四季」。展示室の入り口に、「性的な表現があります。見たくないかたはこちらへ⇒」というような注意書きがあったので、そんなにすごいのかと思って入ってみると、そんな心配や期待はまったく無用な、美しい4点の連作。横浜美術館、もうちょっと違う書き方をした方が・・・。

春画をモチーフにしたのは、日本への留学時代に研究した日本の伝統美術を取り入れた作品を作ろうと思ったときに、すでに色々な解釈で現代にも表現されてきた大和絵などと違い、あまり正当に評価されてこなかった春画に、自分の表現を加えて作品を作る自由度が高いと感じたからだそう。

初めてカラーの火薬絵画に挑戦したという作品は、春画をモチーフにした男女の姿を、春夏秋冬の季節に合わせた色彩の火薬によって抽象的に描いていて、春画にある生命力や情念、愛情などが、爆発によって吹き付けられた火薬による荒々しさ、はかなさのようなものと相まって、純粋に絵画としての美しさを感じさせました。

個人的にはこの作品がこの個展で一番印象に残りました。

 

次の展示室でも、火薬による作品が続きます。陶器レリーフや天井から下がった朝顔の蔓に、火薬によってモノクロームの陰影がつけられた作品たち。

メイキングの映像が展示室内で流されていましたが、真っ白い陶器に四季の草花や小さな生き物を描き出した繊細なレリーフはそれ自体で美しく、それを火薬の爆発で汚すことで新しい美を作りだすというのが、ちょっと東洋的な美意識にも思えました。

 

そして、次の展示室が話題の狼の作品、壁撞き(かべつき)。

youtu.be

99体の狼のレプリカが展示室一杯に躍動しています。

一方の端に置かれた3メールほどの透明アクリルの「壁」に向かって、駆けて行っては、とびかかり、ぶつかっては落ちてくる狼の群れ。

狼の質感も姿勢も、かなりリアル。羊の毛皮を加工したものが使われているため、展示室内に獣のにおいがしているのも、リアリティに影響していたと思います。

99体が一連の動作にそって分解写真のように並べられているので、一体一体を追っていくとアニメーションのように動きが見えてきます。展示室の一方の端から駆けだしてジャンプし、壁にぶつかって床に落ちると体勢を立て直してもどってくる。そのため、狼は永遠に循環することになります。

解説を読むと、この作品は、もともとベルリンで発表され、「壁」はベルリンの壁崩壊後に現れてきた、人々の間にある見えない壁を象徴したもののよう。政治的な壁、経済的な壁、民族的な壁、思想の壁、歴史の壁、文化の壁、日本だとバカの壁というのもありましたが、要するに人々の間であるいは人間と理想の間でそれを阻むもの。

そこに突進して壊そうとしているのか、それを乗り越えようとしているのか、どちらにしても狼は永遠に壁にぶつかって落ちてきます。

狼には勇敢さ、99匹という数字には永遠の循環が暗示されているということですが、カミュの「シーシュポスの神話」のように、不可能な宿命に挑み続ける人間の努力への賛歌というような限定的な見方をしてしまうと、ちょっと面白くないと思います。

実際、そういったメッセージ性から作品を読み解こうとしても、この狼たちはちょっと可愛いし、ユーモラス。永遠に壁にぶつかっている狼たちは、永遠の悲劇でもあるし、ちょっと滑稽にも見えます。

なにしろ、展示室に入った人たちの反応としては、99匹のインパクトに思わず笑みがこぼれる人が大半で、こんなものを良く作ったなあという感嘆があります。そして、狼たちの間をぐるぐる回って、部分や全体を見てまわる面白さがあります。

その不思議な面白さが、作品をメッセージ性、意味性の枠に閉じ込められるのを回避させ、作品の中に人を引き込む広がりを持っているように思いました。このあたりが、蔡國強の国際的な人気ににつながっているのだと思います。それは、キャッチーさということとも違う、このアーティストの特性のように感じました。

 

 あとは、展示作品のメイキング映像やインタビューなどの上映コーナーがありましたが、これがなかなか必見です。なにより火薬を使った制作の様子だけでも見どころですし、日本に留学していた蔡國強が日本語で語る、作品制作に対する考え方も興味深いものでした。

蔡國強は北京オリンピックの開閉会式の花火を使ったアトラクションも手掛けているので、ある意味で体制とも折り合いをつけて仕事をするタイプかと思われますが、インタビューで語られていた、文革期の文化的に抑圧された環境で外部へのトンネルを探していたという生い立ちや、「政府だけが中国ではない。人や文化や土地も中国。それを私は表現する責任がある」という言葉に、彼のスタンスが明確に表れていたと思います。

 

今回の個展のタイトル「帰去来」にはもとに帰るという意味があり、それはアーティストとしての出発点である日本という場所で作品を作ることや、より絵画的な作品への指向を指しているようです。

そういった意味では、海外で話題になったイベント性の高い表現よりも、より本質に近いものが見られる展示かも知れません。

特に印象に残ったのは、コンセプトがある作品でも、結果として鑑賞者には純粋に美しいものを見せたいという美意識で、そこには懐古やナショナリズムではない形で、中国の伝統や文化を、現代に表現する挑戦も含まれるように思いました。

 

最後に、展示室を出たところにに設けられたiPadのゲームは、難易度高すぎるので、時間に余裕のある方だけにお勧めします。

 

yokohama.art.museum

 

www.pen-online.jp

 

「堂島リバービエンナーレ」観ました。

堂島リバーフォーラムで開催中の「堂島リバービエンナーレ2015 ~Take Me To The River」を観ました。
近くにビジュアルアーツ専門学校があるからか、学生風の若いグループや、カップルなどが多かったですが、あんまりプロモーションされていないせいか、割と空いてました。
かなり面白い展示なのにもったいない。8月30日までやってます。

テーマとしては、「Take Me To The River」という副題が表すように、「現代における『流れの空間性』と、そこに現れる変容と交換を探る展覧会」ということで、固定された土地よりも、グローバル化・流動化した現代社会の流れが生み出す空間性に焦点を当てるということのようです。
そのメタファーが「川」や「水」で、展示作品にはすべて、「流動」というキーワードが現れています。
流れるのは、時間でもあり、情報でもあり、お金でもあり、人でもあり、といったところですが、映像も含めて、実際に動く作品、実際に水を使った作品が多いために、鑑賞者は展示を回るうちに身体で「流動」を感じながら、目に見えない流れるものに考えを巡らせることになります。

特に印象に残ったというか、目玉と言っていいのが、池田亮司の作品。
真っ暗なホールの床全面をつかって、デジタル信号が高速で流れていき、しかも、靴を脱いでそのスクリーンの上を歩くことができるために、まるでデジタルの川を自分自身が逆流しているように感じます。
池田亮司の同種のシリーズは一昨年の京都国際舞台芸術祭でも見ましたが、その時はスクリーンでの上映形式だったため、今回は全身で作品世界に飲み込まれるような完全に別の体験でした。
映像も音も最高にクールで、プログラミングという技術や数学的な法則を前提にした美しさの表現としては、これ以上のものは中々無いと思います。
エンターテイメントとして体験しても文句なしに面白く、小さい女の子がデジタル信号の流れを追いかけて往復ダッシュを繰り返したりしていて、鑑賞者も全員楽しんでいました。

また、海外ドラマシリーズのスタイルを借りた、メラニー・ギルガンの映像作品「コモンセンス(フェーズ1)」も面白かったです。
近未来の社会では、上顎の裏にチップを装着し、相手の感情を自分の感情のように感じることができる技術が開発されており、互いに言葉にせず、あるいは努力をせずとも、コミュニケーションをとることが可能になっています。
ここで「流動」しているのは、人間の感情や共感(これも情報として扱われています)ですが、チップに対して身体的拒絶反応の発作を起こす人や、チップなしでは不安で一時も過ごせない人々、そのチップを使って上司の感情を常に部下に感じさせることで業務生産性、効率性をあげるコンサルタント企業などが出てきます。
アートというより警告的なSFのようにも感じますが、スタイルとして海外ドラマシリーズのパロディになっているために、それを展示として観る鑑賞者自身の日常も客観的に意識されるようになっています。

その他にも、サイモン・フジワラ、ヒト・スタヤル、フェルメール&エイルマンスなど、ユーモアを含みつつ過激ともいえる要素もあって、間口の広い、楽しめる作品が多いように思いました。

映像を使った作品が多いのですが、別の意味でもうひとつ面白いのは、同じく映像を使った作品が多い国立国際美術館の「他人の時間」展との対比です。
「他人の時間」展が、アジアの作家がそれぞれの国(土地)特有の歴史や記憶を取り上げた作品が多いのに対し、「堂島リバービエンナーレ」の出品作家は日本人を除き、すべてアメリカとヨーロッパの作家になっており、ITをはじめとするテクノロジーや、金融など、ネットワークの上を流れるものが扱われています。
両展とも現代性を強く意識させるテーマでありながら、真逆のアプローチのようにも思え、同時期にすぐ近くで開催していることを考えると、意図的に互いに補完する関係になっているのかもしれません。
ということで両方観ることをおススメします!
「他人の時間」展は9月もやってますが、「堂島リバービエンナーレ」は8月30日までなので、お早目に。

 

 堂島リバービエンナーレ

DOJIMA RIVER BIENNALE 2015 | DOJIMA RIVER FORUM

 

他人の時間

www.nmao.go.jp

 

 

国立国際美術館「他人の時間」展、見ました。

国立国際美術館で開催中の「他人の時間」展、見に行きました。
ティルマンスと同時開催ということで、ははーん、国立国際美術館、これはティルマンスで集客して、本当に見せたいのはこっちだなと穿ってみたりしつつ。

オフィシャルサイトでコンセプトを見てみてみれば、

「国境を越えた同時代的な記憶や感覚が珍しくなくなった一方で、経済的不均衡や価値観の違いによる衝突が増加する現代のグローバル社会。その中で生きる私たちが、どのように『他人』と接続し、あるいは何によって隔たれているのかを考えてみることは、それぞれが生きる社会や歴史、そして自らが描く世界を問い直すことにもつながります。」

とあります。

これを読んで、ははーん、これは今の日本とアジア、特に中韓を念頭において、相互理解の可能性を考える試みだなと早とちりをしましたが、見終わってみれば、そういった日本に限定した視野で、ここ1、2年のニュースなんかをアートの現代性として期待する安易な視線こそに疑問を呈されているという、自らの迂闊さに冷や水を浴びる夏向きの展示でした。

出品作家の国籍を見ると、

ニュージーランド
インドネシア
シンガポール
韓国
オーストラリア
日本
ベトナム
パキスタン
タイ
カンボジア
亡命先としてのアメリカ、デンマーク

と多岐にわたりますが、そのそれぞれの作品に、それぞれの国・地域で共有されている歴史に属する、少なくとも数十年に渡る民衆の記憶と、その中で、あるいはその狭間で生きる個人の物語が深く反映されています。
そして、それを見て、いかに自分が「他人」であるかを感じます。
キリ・ダレナの空白のプラカードを見れば、そこに書かれているものが何であるのかを想像するのは、自分の中の一般的な民衆デモの知識からの連想でしかなく、フィリピンの近現代史はあまりにおぼろげです。
ヴォー・アン・カーンの写真の風景と人物とその物語に魅入るとき、それはベトナム戦争史への最低限の理解すら通過しているでしょうか。
ホー・ツーニェンの、トニー・レオン映画のコラージュによって重ねあわされた伝記に描かれた人物を、知っている日本人がはたして何人いるでしょうか。

それこそが「他人の時間」であって、この企画展はその中で、それぞれの鑑賞者が他人の時間への通路を探す試みといういうべきでしょう。

アン・ミー・レーの写真の美しさに、確かに映画「アメリカン・スナイパー」とは別の兵士のリアリティを感じ、ミヤギフトシの極めて私的な思い出をヘッドホンで聴きながら、悲しみと安らぎを覚えるのも、ともかくは通路への明かりだと言えないでしょうか。

展示の最後、展示室を出たところには、キム・ボムとイム・ミヌクという2人の韓国の作家の作品が並んでいました。
言葉の意味で成り立つキム・ボムの作品はそのテキストを韓国語、日本語、英語、中国語という4言語で表記してあり、イム・ミヌクの作品では意図的に言語を排したハミングのような抵抗歌を街中で歌う様子が映像で流れていました。

その時ちょうど、最近では珍しくない外国人観光客の団体がその展示を見に回ってきていましたが、キム・ボムの作品のテキストを韓国語で読んでいる女の子、イム・ミヌクの映像を見ながら英語で話し合うアジア人のカップルを見て、彼らの「他人の時間」を考えてみたりもしながら、その状況をちょっと面白く、なんだか嬉しくも感じたのでした。

でも、あの写真のあの風景がどこの国のいつのものなのか、また忘れそうです。インドネシアだったか、シンガポールだったか。それとも日本か。やはり、知ること、学ぶことは大事です。

 

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