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観ないとソンダと思ったので

だれでも発信できること自体が良いことと聞いたので、美術展や映画、音楽などの感想など書いてみます。

森村泰昌連続講座「新・美術寺子屋/自画像の話」第1回

アート

森村泰昌連続講座「新・美術寺子屋/自画像の話」

第1回 「レオナルド・ダ・ヴィンチ~自画像にはきっとウソがある」

聴きに行って来ましたので、覚書として書いておきます。

部分部分、正確でないところもあるかもしれませんので、ご容赦ください。

また、分かりやすさのため、画像もWikipedia からコピーして掲載しています。Creative Commonsなので、問題ないかと思っているのですが、問題があるようでしたらご指摘いただけると幸いです。

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今回は全10回シリーズの初回で、それほど宣伝もされていなかったようですが、ファンの多さからか、テーマが面白そうだからか、会場は満員でした。

森村泰昌でテーマが「自画像」、それも全10回となれば、これは本気だと思わせるものですが、期待にたがわず初回から非常に面白い内容でした。

まずは日本の美術における自画像について考える導入として、東京芸大の卒業制作では、卒業生全員が自画像を描く伝統があり、それを全て大学が買い上げる仕組みになっているという話が紹介されました。それは明治から続く伝統で、つまり日本の美術教育で自画像が非常に重要視されてきたことを意味します。

そこで、田中英道の著作「画家と自画像-描かれた西洋の精神」が引用され、「自画像とは西洋の精神を描くものではないか、そしてそれは何を意味するのか」という問いが出されました。

これは非常に大きな問いで、森村さんにとっても、その答えは「分かりません(笑)」と冗談っぽくおっしゃってましたが、続けて「しかし、あるものを媒介に西洋における自画像の始まりを考えることはできます。それは『鏡』です。」と、鏡というキーワードが提示され、話は自画像の歴史に入っていきました。

一般的に自画像の始まりとされているのは、ヤン・ファン・エイクが1443年に描いた「ターバンの男の肖像」だそうです。(ヤン・ファン・エイク - Wikipedia)

ヤン・ファン・エイク
Portrait of a Man by Jan van Eyck-small.jpg
『ターバンの男の肖像』 1433年

これまでも、宗教画などに画家が自分の姿を描き込むことはあったものの、自分自身を主題として書かれたものは、これが始まりと考えられるようです。

このころ描かれた自画像をみると、ポーズや左右の反転などから、明らかに鏡を見て描かれていることがわかる。これは、それまでの金属板を磨いた鏡から、ガラスを用いた鏡へという技術の進歩のおかげで、自分自身の姿を明瞭に見られるようになったことが、決定的な影響を持っている。そしてまた、神のみが見ることができた自身の姿を、自分自身で見られるようになったことで、やがて自画像の表現の軸足も神から人へと移っていったということです。

そして、ヤン・ファン・エイクと比較してより人に軸足を置いた自画像として、アルブレヒト・デューラーの描いた「1500年の自画像」が紹介されました。(アルブレヒト・デューラー - Wikipedia

アルブレヒト・デューラー
Albrecht Dürer
Albrecht Dürer - Selbstbildnis im Pelzrock - Alte Pinakothek.jpg
自画像(1500年)

自信に満ちた表情で正面を向いた自画像。右手の長い印象的な人差し指は、自分自身を指し示しているようにも、絵筆の象徴のようにも、またこの右手のポーズが十字を切り終わった最後のアクションのようにも見える。いずれにしても28歳とは思えないほどの意志と威厳を観る者に感じさせる自画像です。

ゲーテも愛したというこの自画像において、自画像を鑑賞するという行為が「人間と人間(画家と鑑賞者、または画家と画家自身)とのプライベートな領域での出会い」として成立するようになったと言えるそうです。

そしてここでいよいよ、第一回のテーマであるレオナルド・ダ・ヴィンチの話に入ります。キーワードは「もうひとつのThe自画像としてのレオナルド」。

レオナルド・ダ・ヴィンチの自画像として誰もが見覚えのあるのが、トリノ王宮図書館が所蔵するこの作品。

Leonardo da Vinci - presumed self-portrait - WGA12798.jpg
トリノ王宮図書館が所蔵するレオナルドの自画像。1513年 - 1515年

 深い知性がしわに刻みこまれたような有名な自画像ですが、森村さんはこれが本当にレオナルドなのかという疑問を呈します。ポピュラリティは疑ってかかった方が良い。

参考として挙げられたのが、同時代人のレオナルド評。そのいずれもが、レオナルドの特徴として、特に美形・優美な男性としての印象を述べています。曰く、ピンクのチュニックを着ていた(!)。ひげは常に美しく手入れされていた。誰もが感嘆する優雅な身のこなし。さらに、弟子たちにもおしゃれな服装をさせていた等々。レオナルドの知性や、才能よりも容姿に関する記述が多いのです。

それにしては、このトリノ王宮図書館の自画像はずいぶん気難しい印象です。

確かに、弟子であるフランチェスコメルツィの描いたレオナルド像の美形ぶりの方が人物評に合っているように思えます。(Leonardo da Vinci - Wikipedia, the free encyclopedia)

Leonardo da Vinci
Francesco Melzi - Portrait of Leonardo - WGA14795.jpg
Portrait of Leonardo by Francesco Melzi.

付け加えると、同時代人の人物評では、現代ほどレオナルドは偉大な人物としては評価されていないそうです。実際、現存する作品9点のうち完成された作品は3点のみ。建築でも有名なレオナルドですが、それもどちらかというとプロデューサーのような役割だったよう。ミケランジェロなどと比べると、形として残した仕事がそれほど多くはない。自らが手掛け、残した仕事のスケールで判断すれば、レオナルドはそれほど大きな仕事を残したとは言えない。

そのようなレオナルドの評価が一変するのが19世紀。手書き原稿の研究が一気に進み、残された膨大な記録から、レオナルドが天文学から医学、科学から芸術までいかに途方もないスケールの思想家だったかが分かり、「西洋の精神の頂点・原点」として認識されるようになったそうです。

そのようなキャラクターを与えられたレオナルド・ダ・ヴィンチにとっては、トリノ王宮図書館が所蔵するレオナルドの自画像は、いかにもふさわしい顔であると言えます。そうなると、これこそがレオナルドであるということになる。ちなみに、この自画像はレオナルドと考えられてはいますが、確定されたわけではないそうです。

これが本当のレオナルドであるかどうかは不明としても、結果的にこの禿頭と白ひげの自画像が「偉大な賢人のプロトタイプとしての自画像」となり、その後の歴史に登場する人物、マルクストルストイ、日本でも伊藤博文などの肖像に同様のイメージが与えられるようになります。

 

LNTolstoy.jpg

トルストイ

Itō Hirobumi.jpg

伊藤博文

こうして、レオナルドの自画像は、「人間と人間とのプライベートな領域での出会い」としての自画像とは異なる「もうひとつのThe自画像」としての性格を持つに至ったというわけです。

「はたして、レオナルドのプライベートな自画像はどのようなものだったのでしょうか?」

という問いかけで、第1回の講座は終了となりました。

2時間近い講義でしたが、非常に興味を掻き立てられる面白い内容でした。

16世紀に西洋で生まれた2つのタイプの自画像が、明治から続く日本の美術教育や、伊藤博文の肖像にも投影されていることは、森村泰昌さんが今、自画像を講座のテーマとしたことと合わせて、日本の近代化から現在につなげて考えられる事柄が含まれていると思います。

Ustreamでも毎回生中継されるこの連続講座、あと9回、楽しみです。

※森村さんは、ダ・ヴィンチの作品の多くが未完成であることには重要な意味があるということもちらっとおっしゃってました。今回は深く触れられませんでしたが、そこもかなり気になりました。

morimura2016.com