観ないとソンダと思ったので

だれでも発信できること自体が良いことと聞いたので、美術展や映画、音楽などの感想など書いてみます。

京都国際舞台芸術祭 KYOTO EXPERIMENT 2016 感想(ダヴィデ・ヴォンパク、地点)

KEXことKYOTO EXPERIMENTあるいは、京都国際舞台芸術祭。

今回は、ロームシアターの開館に合わせて、1年以上待っての春開催でした。

僕は2011年の2回目から見ていますが、だんだん見る演目が増え、前回からはフリーパスで公式プログラムは、ほぼ全て見るようになりました。

僕は、ダンスや演劇の知識は全くと言って程無いずぶの素人ですが、KEXには、はまったと言っていいと思います。

むしろ、あまり知らないだけに、この質とボリュームで実験的な舞台を集中して見られることが面白くて仕方ないのかもしれません。

で、紹介したいわけです。特に現代美術が好きな方は、面白いと思います。今年は瀬戸内国際芸術祭でも舞台芸術がフューチャーされたり、最近、現代アートと舞台芸術は、表現の形式においても、観られる機会、会場などに関してもかなり重なってきてますし。

KEXには公式プログラムで十数本の、演劇とダンスの演目が毎年行われるわけですが、とくにダンス公演となると観客数でも多分200人とか?で、少ないうえにどうもその筋というか、コアなファンがほとんどに見えるんですね。それが、とてももったいないと感じます。

確かにそういう密室感や親密感、好事家が集まる怪しい集いみたいなのもKEXの魅力なんですが、やっぱりこの面白さ、もっと観られてしかるべき。今年はもうまたすぐ秋にも開催されますし。

で、何が面白いかを紹介するには、一素人として僕が見た実際の演目の感想なんかが一番実感が出るかなとも思いますので、さらさらっと書いてみます。

今回僕が見たのは、下記の公式プログラムのうち、都合で見られなかったチェルフィッチュを除く9演目。

 

ダヴィデ・ヴォンパク「渇望」

KEX初日の一発目に、このカニバリズムをテーマにしたダンス作品。開館したばかりのロームシアターで。さすがKEX。正面突破で実験舞台芸術を、市民の集う新会館に乗っけて来た感じです。

タイトルやわずかな紹介文や写真から、裸だろうなと思ってましたが、実際は全裸になることはなく、むしろ全裸にならないことで、人間が隠している部分を、見せるということを意識させられるようでした。それも、性的であることを戯画的と思えるほど露骨に表現して見せることで、羞恥心や禁忌を軽く飛び越えていた感じです。

唾液をとばすという行為が象徴的でしたが、踊っているパートナーにそれをかけることも含めて、唾液も身体の一部として振り付けに組み込まれていたのが印象的でした。

観客には笑っている人もいましたが、ダンサーの表現には悲痛としかいえないシーンもあり、はたして悲劇か喜劇か分からない、あるいはどちらでもあるという点にリアリズムを感じました。

ただ、もしあのダンサーが日本人だったら、羞恥や禁忌の感情は、観客としてとても違う見え方になるだろうと思います。人種、特に顔の造作と、他者としての距離感との結びつきは強く、特に、日本人にとって視覚に対しての人種の違いは根深い。性的な表現にかけては、やっぱりフランス人ってすごいと思いますが、多くの観客にとって演者がフランス人だからこそ、距離を置いて鑑賞できたのは確かだと思います。

ある意味では一番過激だったこの作品を、多分あえて今年最初の演目に持ってくることで、ロームシアターという、よりメジャーな舞台にホームグラウンドが移ってもEXPERIMENT精神は変わらないというKEXの意志表明とも受け取れました。

 地点「スポーツ劇」

圧巻と言ってしまうとそれで終わってしまいますが、あれだけの言葉を浴びた後に、なかなか中途半端な言葉は出てきません。

正直、これまで地点は苦手でした。特に前回のKEXで見た「光のない」では、イェリネクの難解なテキストをひたすら追っていると、独特のイントネーションや脚韻、叫びに近い発声に違和感が募っていき、かなり辛い観劇でした。

今回も「光のない」に続いてイェリネク作品ということで、ちょっと心配でしたが、まずそのサッカーのグラウンドを縦に起こしたような独特の舞台美術に興味を惹かれ、始まってからも、その重力を活かした動きと言葉の絡みが、「光のない」よりはとっつきやすい印象を受けました。

それでも、しばらくテキストを追っているうちに、やっぱりちょっと厳しいかなあという気にもなったのですが、(実際、隣の初老の外国人は途中で席を立ってしまいました。)ある一点を境に(それがどこかは明確に覚えていないのですが)、急に言葉が入ってくるようになったのです。自分でも意外だったのですが、それからは、ひたすら役者の発する言葉の奔流とリズムに打たれ続けるような感動で、ただもうずっと終わらずに、いつまでも続いてほしいと思っていました。

サッカーの試合のように何度も倒れながら、起き上がっては、とめどなく言葉を発し続けてきた人物たち。そして決して交わらなかった人物たち。それが最後に、並んで手をつなぎ、ひとり倒れ込んだ「ママ」を呼びながら何度も手を引くのですが、その手に力はなく、もう「ママ」は起き上がらない。その場面の悲しさと美しさは相当なものでした。

スポーツと戦争の関係がテーマになったその戯曲のテキストの意味を読み解けるほどの教養は僕にはありませんが、その舞台からは確かに戦争というもののもたらす、底知れない何か、叫ばずにいられない何かを感じることが出来たと思います。創作において、誠実に戦争を語り、それを観客が感じるには、質においても量においても、あれだけの言葉が必要なのだと、終演後はしばらく何の言葉も浮かばずに、駅までの道を歩きました。ロームシアターを出ると月がきれいで、劇場から出てきた人たちも皆あまりしゃべらずに月を見ていたようでした。

 

さらさらっと書くつもりが、そこそこ長くなりそうです。
というわけで、続きは次回のエントリーにしたいと思います。