観ないとソンダと思ったので

だれでも発信できること自体が良いことと聞いたので、美術展や映画、音楽などの感想など書いてみます。

京都国際舞台芸術祭 KYOTO EXPERIMENT 2016 感想(トリシャ・ブラウン、マヌエラ・インファンテ/テアトロ・デ・チレ、ボリス・シャルマッツ/ミュゼ・ドゥ・ラ・ダンス、足立智美 × contact Gonzo)

京都国際舞台芸術祭 KYOTO EXPERIMENT 2016 感想、最後の回です。

トリシャ・ブラウン・ダンスカンパニー「Trisha Brown: In Plain Site」

ポストモダンダンスの旗手として60年代にアートや現代音楽とのコラボレーションを展開、コンテンポラリーダンスの世界では最重要な振付家である」というような情報から、これは今年一番楽しみにしていました。

京都国立近代美術館のロビーと階段が舞台で、僕が鑑賞したのは夜の回。

観客は舞台となるスペースの周りに輪になって鑑賞し、ダンサーと舞台が移動するたびに、一緒に移動する形式でした。

開演前に、音を立てなければ、写真撮影OKという案内がありましたが、実際に写真を撮る人は少なく、撮るときも控えめでした。

どれもこれも写真にとってシェアしたくなるような、ある意味ポップでおしゃれなダンスだったのですが、皆ダンスそのものに集中していたようで、観客数は200人程度で決して多くはないですが、本当にダンスを観たい人が集まっていた感じでした。

今回の舞台は、60年代のカンパニーの作品のオムニバス形式で、シンプルな白い衣装、美術館の背景もあいまって、非常にミニマルな演出。ダンサーたちも微笑んでいて、ある意味、かわいいともいえるダンスでした。

ダンサーたちの動きそのものはタイミングや角度など、計算され、訓練されたとおりに動いている感じで数学的。3人から4人が同時に踊るのですが、一定の距離を保ちながら、重なったり、離れたりする動きは、無音の作品でも音楽的でした。仰向けに寝て隣が見えない状態で音楽も無い中、あれだけ正確に動きがシンクロしているのは、よく考えるとすごいことだと思うのですが、それがとても自然に見えて、ダンサーの動きひとつひとつが五線譜の上の音符のようでした。

いくつかの作品にはテーマ曲もあって、その選曲も60年代のポップスなどでラブリー。音のリズムや音程などより、その曲の雰囲気を活かしたダンスという印象で、トリシャブラウンの音楽の趣味が出ているのでしょうか。

別の見方としては、シンプルで計算された動きが繰り返されるところは、なんとなく、ファミコンとかGIFアニメを連想させるようでもありました。

KEXで観られるダンス作品では過激な方向でのエクスペリメント(実験)が多いのですが、60年代におけるダンスの実験としての、徹底してミニマルで批評的なユーモアのある世界は新鮮で、その優しい世界に癒されました。

今回のKEXでは個人的に最も好きな作品でした。鑑賞者が少なかったのが勿体ないなと思います。

 

マヌエラ・インファンテ/テアトロ・デ・チレ「動物園」

 南米チリの演劇。チリという土地の植民地としての歴史から、今に続く文化的アイデンティティーの問題を、原住民と研究者という2対2の人物が演じる役柄を通して描いたものでした。

セリフはスペイン語なので、舞台上方の電光掲示板に日本語訳が流れるスタイル。これまでにも何度かこの形式での舞台を観ましたが、セリフの多い芝居では正直どうしても字幕を追ってしまい、なかなか入り込めません。今回の芝居では、この字幕を活かした演出などもあったのですが、個人的にはやはり全く分からない言葉での舞台にはまだ慣れていないというのが正直なところです。

脚本、そして演出には、劇中の人物の間、そして演者と観客の間の、観る側と観られる側の関係性を揺さぶるような仕組みがありますが、本来はチリの鑑賞者を想定したもののためか、そのラストなども含めて、今回は少し距離を感じました。

今年の秋にまた、この作品を日本語版としてリメイクしたものが上演されるようですが、そちらの方がおそらく日本の観客にとっては分かりやすいものになるのではないかと思うので、機会があったら見てみたいと思います。

 

ボリス・シャルマッツ/ミュゼ・ドゥ・ラ・ダンス「喰う」

ダンス公演で春秋座が会場というのは、意外な感じがしましたが、始まってみればなるほど、観客全員が緞帳の裏の舞台に連れて行かれました。つまり観客も舞台上でダンサーと一緒になって、その中でダンスを観る形式でした。

KEXの演目では以前にも、マルセロ・エヴェリンの「突然どこもかしこも黒山の人だかりとなる」という作品で、同様のスタイルが用いられていました。

ただ、この作品では、マルセロ作品のように観客が巻き込まれるわけではなく、むしろ雑踏のようにランダムに立つ人間の間で、その何人かが突発的にダンスを始めるといった形でした。日本だと外国人がダンサーなので、集団の中では最初から存在感があるのですが、西欧だと本当に普通の観客の中から突然ダンスが始まる感じになるだろうと思います。

ダンスと言っても動きは様々で、腕を噛んだり、叫んだりしつつ、特異なポーズを繰り返し変化させて、徐々に床に倒れ込んでいき、また起き上がったりするのですが、その間、常に、片手に掴んだ数枚の白い紙を小さくちぎっては口に入れていきます。つまり、タイトル通り実際に「喰う」ダンスでした。目の前で実際に大量の紙を食べていくので、それが安全な紙なのか、気にはなりましたが、口の動きや食べるという行為をダンスに取りこむというのは面白かったです。

また、実際に「喰う」以外に同じく口を使ったアクションとして印象的だったのが、歌うことでした。この歌が非常に効果的で、 観客の足下で痙攣的な動きを繰り返していたダンサーたちが、おもむろに美しいアンサンブルで合唱しだすと、不思議な感動が起こります。するとここで、それまでの展開にやや戸惑い気味でバラバラだった観客が、歌によって、ひとつにまとまる様な感覚がやってきます。

これは感動的であると同時に、それまであった既存のダンスを解体しようとする広がりが、情緒的な集団化にとって代わる危険も感じたのですが、その集団化は、それぞれのダンサーたちが、食べるという原初的な動作をダンスとして行うという奇異な光景を続けていることよって、回避されていたように思いました。

また中盤では、女のダンサーが男のダンサーの手足の上に、あるいは男のダンサーが男のダンサーの手足の上に、靴で乗り、逃れようと回転するところを逃さずに乗り続けるシーンがありました。その間もダンサーは紙を食べ続けます。また一瞬、他のダンサーに紙を食べさせるシーンもありました。「食べざるをえないこと。誰かに犠牲をしいても自分が食べること。誰かのために、食べさせてあげること。踊っていても、愛していても、憎んでいても食べること。」そんな言葉が浮かび、食べ物そのものである白い紙から、旧約聖書に出てくる神が民に与えた白い食べ物「マナ」を連想したりもしました。

最後にはきれいに舞台に落ちた切れ端まで白い紙を食べつくして演技は終了しました。

今回参加した、ダンサーはプロもいれば、役者もいるとのことでしたが、素晴らしいパフォーマンスだったと思います。

 

足立智美 × contact Gonzo「てすらんばしり」

今回のKEXで最後に鑑賞したのは、Experimentな音楽家の足立智美と、KEXではレギュラーとも言えるcontact Gonzoとのコラボレーションである「てすらんばしり」。なんとなく、KEXでは明るさを持った作品をスケジュールの最後に持ってきているような気がするのですが、この作品も子供たちの明るさに満ちた良い作品でした。

もっとも、KEXそしてゴンゾですので、子供たちをつまらない健全さには閉じ込めておかず、危なさ、もっとはっきり言えば身体、ダンスと痛みや暴力との接点も隠すことなく提示された上での、子供たちとのパフォーマンスでした。

念のために書いておくと、子供たちが出てくるシークエンスでは、大人同士でも平手打ちや相手を吹っ飛ばすような体当たりは無く、実際の身体の動作としては、鬼ごっこに興じる小学校の先生と児童といった趣でした。

ただ、その前の大人だけのシークエンスは本気のゴンゾ。さらに、今回は女性ダンサーも加わり、体当たりから、平手打ちまで、くったりくらわせたり。やっぱり見てて、ちょっと心配しましたが、もともと、コンタクトする側にもされる側にも、「手加減」とも重なりながら微妙に異なる身体のコントロール(振り付けといって良いんでしょうか)があるのが、ゴンゾのコンタクトなので、女性が入ることでそれに変奏が加わったような印象でした。特に、今回の舞台は客席との距離が近く、コンタクトのタイミングを図る息づかいまでよく分かりました。

そのコンタクトが、次のシークエンスで子供たちが駆け足で舞台になだれ込むと、いっぺんにほのぼのに反転したのは、やっぱり子供の身体のパワーではないかと思います。

また、子供たちのパフォーマンスには、ゴンゾとともに、足立智美の音楽的要素も同時に加わっていました。説明が難しいのですが、円形に広がった子供たちが、あらかじめ自由に描いた線を手に持って立ち、その中心で回転する足立智美が自分に向いたときに、子供たちが自分の描いた線の高低を音にかえて発声することで、音楽が生まれるという仕掛けでした。巨大な人力レコードという感じでしょうか。

ちなみに、あらかじめ他にもたくさんの子供たちがワークショップで描いた線を楽譜として、さまざまな物で鳴らした音がサンプリングされて、舞台の序盤で流されていました。ビジュアルも含めてとても楽しい音楽で、子供には「こういうのも音楽です」じゃなくて「これが音楽です」と教えてもいいんじゃないかと思います。その方が楽しいと思います。

そして、最後のシークエンスは、これも説明が難しいのですが、今度は中心を向いてワゴンに乗った足立智美を、中心に位置したゴンゾのメンバーがロープをもって回転させ、足立智美が叫ぶと、中心の天井から下がったテスラコイルから電子音で変換された声とともに、雷のような電磁波がゴンゾのメンバーの上に放出されるという、狂った(笑)趣向で、大いに楽しめました。

ひとつながりの構成全体を観ると、子供たちはダンスも音楽も体全体で演じているという点で変わりなく、シークエンス毎にどちらかが主体というよりも、音楽もダンス、ダンスも音楽ということかと思いました。

足立智美×contact Gonzo×子供たち」がとても良いコラボレーションだったと思います。

 

 という感じで、2016年春のKyoto Experiment、京都国際舞台芸術祭の個人的感想でした。実験的な舞台と言っても演目によってずいぶんその方向性も異なるので、自分が興味のあるものだけ見るのも良いと思います。とはいえ、何かわからないものを観に行って劇場で驚くというのもKEXの楽しみなのです。

今年はまた本来の会期に戻って、早速、秋にも開催されるということですし、過激さよりエンターテイメント性があるものが好みというような方には、歌舞伎の演目を現代の言葉、解釈で再生させる木ノ下歌舞伎もあります。

興味のある方、特に現代美術なんかが好きな方は、是非一度足を運んでみてはどうでしょうか。

www.cinra.net