観ないとソンダと思ったので

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瀬戸内国際芸術祭「大島」へ行って来ました。

先週末、瀬戸内国際芸術祭の開催地のひとつである大島に行って来ました。
芸術祭の開催地とは言っても、大島の場合は他の瀬戸内の島のようにアート体験を目的とするものとは少し趣が異なっています。

面積61ヘクタール、良くある言い方だと東京ドーム約13個分の広さの大島には、日本に13施設ある国立ハンセン病療養所のひとつ大島青松園があります。

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1909年(明治42年)に療養所がつくられてから、ハンセン病患者の隔離政策のもと、のべ4000名近くのハンセン病患者が入所し、約半数がこの島で生涯を終えています。
ハンセン病はもともと極めて感染力が低い上、治療法も確立されており、適切な治療を受けて治癒した患者からは感染の恐れのない病気ですが、日本では1996年に「らい予防法」が廃止されるまでは患者の隔離政策が取られ、一般の人が療養所に行き来することも自由にはできませんでした。

現在では数十人の入所者全員のハンセン病に関する基本治療は終了していますが、平均年齢83歳とすでに高齢であり、島での生活が長いため、患者ではなく入所者として、そのまま島に居住しているとのことです。

瀬戸芸では2010年の第1回から大島も開催地としてアート作品の展示と、その歴史や、入所者のかつての生活などを見学するツアーを開催しています。

通常は月に2日ほど見学の機会があるそうですが、芸術祭期間中は、高松港から毎日3便の高速艇が無料で出ており、見学希望者は「高松港総合インフォメーションセンター」で整理券を受け取って、ツアーに参加することになります。ツアー自体は高松港を出発して島をめぐり、また戻ってくるまでトータルで2時間ほどでした。

20名ほどの参加者と一緒に高速艇に乗り込み、高松港を離れると波しぶきをあげて、大島をめざしました。

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位置的には、高松からすぐ近くの島なので、20分ほどで大島が見えてきます。
上陸するとすぐに受付で参加賞をもらい、芸術祭のボランティア、こえび隊のガイドの方による、ツアーが始まりました。

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ガイドについて歩き始めるとすぐにスピーカーからずっと流れている静かな音楽に気が付きます。
これは、盲導鈴というものだそうで、ハンセン病は進行すると失明など視力に後遺症が残るケースがあるため、目の不自由な入所者のために、地区によって異なる音楽をずっと流しているのだそうです。この盲導鈴と、道沿いに腰くらいの高さに設置された盲導柵、そして道の中央に引かれた白線が、大島3点セットと呼ばれているそうです。

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今回の瀬戸芸では、食がひとつのテーマとなっており、大島でもカフェシヨル(さぬき弁でシヨルは「している」なので、「カフェやってます」のような意味?)というカフェで、地元の材料を使ったスイーツや、ドリンク、ランチなどが食べられます。

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このカフェは大島でのアートプロジェクト「やさしい美術プロジェクト」の一環として名古屋造形大学が中心となって2013年に作られ、大島で採れた果実で作られたお菓子やドリンクを、大島の土で作った器で食べられるそうです。島外からの訪問者、入所者、療養所の職員が、隔てなく集う場所として運営されているようです。

カフェを過ぎ、道沿いに小山をのぼっていくとすぐに右手に海が見えます。その眼下には、入所者が利用する共同浴場があります。

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そして、そのまま細い道をさらに登っていったところに、納骨堂と石碑が建てられています。
かつてハンセン病を患った人々は、差別の対象となったため、療養所に入る際に、家族との縁を切ってきたと言います。そのため、亡くなった後に入る墓が無く、その骨を納めるための納骨堂が、日本にある13の療養所すべてに設けられています。この大島の納骨堂には1500人の骨が納められているそうです。
ツアー参加者全員で、黙とうした後、入り口の外から少し中を見ることができましたが、割と最近改装されているのか、内装がとてもきれいに作られていたのが印象的でした。

その納骨堂のすぐ横にある石碑のひとつには、胎児の碑があります。
かつて療養所内での患者同士の結婚は許されていましたが、子供を持つことは許されなかったため、生まれることが出来なかった胎児のために、この石碑が建てられています。
その横には、亡くなったハンセン病患者の碑、そしてハンセン病の救済事業に尽力した、かつての大島青松園の園長である医師小林博士の碑がありました。
小林博士は医師ですが、一般的には、ハンセン病療養所では、治療よりも監視、管理が優先されたため、警察官僚のOBが所長を勤めることが多かったそうです。

納骨堂と石碑のある丘を反対側に下っていくと、石仏がならんでいます。

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これは島の中でも、八十八か所巡りの遍路ができるように、各寺から寄贈されたもので、実際に八十八の石仏があるようです。大島では入所の際、仲間を作るために仏教か、キリスト教かどちらかの団体に所属することが推奨されたそうです。


そこからほどなく行くと、入所者の住居があります。小さなアパートのような部屋が並んでいました。かつて、入所者数がピークの昭和18年には、740人の入所者がおり、24畳の部屋に12人が寝起きしていたそうです。

そして、ツアーの最後の場所、元入所者の住居を改造した場所には、アート作品の展示スペースがあります。
絵本作家、田島征三さんの作品と、ギャラリーとして、入所者の使っていたカメラや撮影した写真、釣りなどを楽しんだ木船、入所者が読んでいた本などが展示されています。

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ハンセン病を患い大島に来ることになった人たちが、この島でそれぞれの人生を過ごす中で、それぞれの生きがいや楽しみとして使っていた道具には、その内側にその持ち主の時間がいまも流れているようで、じっと見ていると、その道具が使われている様子や、その持ち主が見ていた光景が一瞬浮かぶような気がしました。


特に、入所者が読んでいた本とともに展示されていた、入所者が書いた詩や短歌、小説などの文学作品は、少し目を通しただけでも、ただの気を紛らわせるための趣味から遥かに遠く、文学としての深い精神性を感じさせるものでした。後で、調べてみるとこの大島からは、他の文学者からも高く評価され、全国区で活躍した作家や詩人など、非常に高い文学性を持った作品が多く生まれているようです。入所者の味わった体験、重ねた思索から、そういった文学的な作品が生み出されていったということだと思います。

そのアート展示の空間の間に、潮に洗われた石の台が置かれています。これは、かつて亡くなった患者の解剖に使われていた解剖台なのだそうです。

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ガイドの方によると、入所時に解剖への同意書にサインをさせられていたという話でした。
年月が経ち、ゴミとして海岸に放置されていたものを、この場所に置き直して展示されているということです。
波と風の音だけが穏やかに聞こえる中で、手洗い場のように置かれた石が、人間の解剖台であるという事実には、シュールな非現実感とともに、言葉を失わせるような悲しさを感じました。

この島を歩いてみると、 ハンセン病の歴史、大島の歴史は、見学者として単純な憤りを覚えるにはあまりにも深く複雑で、過去として傍観するにはあまりにも近く感じます。そして、暗鬱になるには、島の人や空気はあまりにも静かで穏やかでした。

しかし、多数にとって何か都合の悪いものを見えないものとして隠そうとする傾向や、根拠のないルールであっても、過ちを認めて改善することを避けようとする無責任さや、権威によって決められたものを、雰囲気の中で受け入れるともなく受け入れてしまう習性など、そこには、今も変わらない日本人の特質として省みるべきものがあるのではないかと思います。

そして、それにもかかわらず、自分自身がこの島を歩くときに感じる静かな気持ちも、これもどこか日本人的な感性なのかもしれないとも思いました。

ガイドツアーが終わると、残りの時間はアート作品や島の散策、カフェなどで時間を過ごし、スタート地点にもどり、また高速艇に乗って高松港にもどりました。
アクティビティのような楽しいアートツアーではありませんが、ただの社会見学とも違い、何か貴重な静かさを感じる時間でした。
大島をアートの島と呼べるかどうかは分かりませんが、その体験は確かに真摯な芸術作品に触れたときの気持ちと通じるものがあるように思いました。 

setouchi-artfest.jp