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観ないとソンダと思ったので

だれでも発信できること自体が良いことと聞いたので、美術展や映画、音楽などの感想など書いてみます。

国立国際美術館「他人の時間」展、見ました。

国立国際美術館で開催中の「他人の時間」展、見に行きました。
ティルマンスと同時開催ということで、ははーん、国立国際美術館、これはティルマンスで集客して、本当に見せたいのはこっちだなと穿ってみたりしつつ。

オフィシャルサイトでコンセプトを見てみてみれば、

「国境を越えた同時代的な記憶や感覚が珍しくなくなった一方で、経済的不均衡や価値観の違いによる衝突が増加する現代のグローバル社会。その中で生きる私たちが、どのように『他人』と接続し、あるいは何によって隔たれているのかを考えてみることは、それぞれが生きる社会や歴史、そして自らが描く世界を問い直すことにもつながります。」

とあります。

これを読んで、ははーん、これは今の日本とアジア、特に中韓を念頭において、相互理解の可能性を考える試みだなと早とちりをしましたが、見終わってみれば、そういった日本に限定した視野で、ここ1、2年のニュースなんかをアートの現代性として期待する安易な視線こそに疑問を呈されているという、自らの迂闊さに冷や水を浴びる夏向きの展示でした。

出品作家の国籍を見ると、

ニュージーランド
インドネシア
シンガポール
韓国
オーストラリア
日本
ベトナム
パキスタン
タイ
カンボジア
亡命先としてのアメリカ、デンマーク

と多岐にわたりますが、そのそれぞれの作品に、それぞれの国・地域で共有されている歴史に属する、少なくとも数十年に渡る民衆の記憶と、その中で、あるいはその狭間で生きる個人の物語が深く反映されています。
そして、それを見て、いかに自分が「他人」であるかを感じます。
キリ・ダレナの空白のプラカードを見れば、そこに書かれているものが何であるのかを想像するのは、自分の中の一般的な民衆デモの知識からの連想でしかなく、フィリピンの近現代史はあまりにおぼろげです。
ヴォー・アン・カーンの写真の風景と人物とその物語に魅入るとき、それはベトナム戦争史への最低限の理解すら通過しているでしょうか。
ホー・ツーニェンの、トニー・レオン映画のコラージュによって重ねあわされた伝記に描かれた人物を、知っている日本人がはたして何人いるでしょうか。

それこそが「他人の時間」であって、この企画展はその中で、それぞれの鑑賞者が他人の時間への通路を探す試みといういうべきでしょう。

アン・ミー・レーの写真の美しさに、確かに映画「アメリカン・スナイパー」とは別の兵士のリアリティを感じ、ミヤギフトシの極めて私的な思い出をヘッドホンで聴きながら、悲しみと安らぎを覚えるのも、ともかくは通路への明かりだと言えないでしょうか。

展示の最後、展示室を出たところには、キム・ボムとイム・ミヌクという2人の韓国の作家の作品が並んでいました。
言葉の意味で成り立つキム・ボムの作品はそのテキストを韓国語、日本語、英語、中国語という4言語で表記してあり、イム・ミヌクの作品では意図的に言語を排したハミングのような抵抗歌を街中で歌う様子が映像で流れていました。

その時ちょうど、最近では珍しくない外国人観光客の団体がその展示を見に回ってきていましたが、キム・ボムの作品のテキストを韓国語で読んでいる女の子、イム・ミヌクの映像を見ながら英語で話し合うアジア人のカップルを見て、彼らの「他人の時間」を考えてみたりもしながら、その状況をちょっと面白く、なんだか嬉しくも感じたのでした。

でも、あの写真のあの風景がどこの国のいつのものなのか、また忘れそうです。インドネシアだったか、シンガポールだったか。それとも日本か。やはり、知ること、学ぶことは大事です。

 

www.nmao.go.jp